最近、どこを向いても「言語化」という言葉が溢れています。 ビジネス書を開けば言語化の重要性が説かれ、SNSでは言語化能力が生存戦略だと叫ばれる。正直に言って、今の僕はこの「言語化」という四文字が少しばかり食傷気味です。
あまりにも便利に使われすぎて、実態のない流行語のように響く。 だから、僕は最近、自分の口からこのワードを発することをあえて控えるようにしています。
けれど、あえて今、この「LOG」という思考の掃き溜めでこのテーマを選んだのは、かつての僕がこの「言葉にならない」という問題に、人生を左右されるほどの猛烈なコンプレックスを抱えていたからです。
今でこそ、YouTubeで何十分も自分の想いを語り、こうして数千文字のブログを書き連ねていますが、少し前までの僕は、自分の内側にある熱量を一滴も外に漏らせない、密閉されたタンクのような人間でした。

言葉が喉で「渋滞」していた、あの頃
仕事の場面で、上司に何かを報告する。あるいは自分の意見を求められる。 僕の頭の中には、確かに「言いたいこと」があるんです。それは色鮮やかなイメージや、確かな違和感として、脳内に存在している。
けれど、いざ口を開こうとすると、そのイメージに合う「言葉」が見つからない。 無理に言葉を紡ごうとすると、文法は崩れ、語彙は貧弱になり、話の着地点が見えなくなる。
「……あ、いや、つまり、その……」
言葉に詰まれば詰まるほど、焦りが募ります。額にはじっとりと嫌な汗が浮かび、心拍数が上がる。目の前の相手が「で、結論は何?」とイライラし始めるのが、空気の震えで伝わってくる。 その苛立ちを感じて、さらに思考がフリーズする。
結局、伝えたいことの10%も伝えられないまま、「すみません、また整理して持ってきます」と逃げるようにその場を去る。 そんな負のスパイラルに、僕は何度、絶望したことでしょうか。
「自分は、頭が悪いんじゃないか」 「社会人として、決定的に何かが欠落しているのではないか」
そんな恐怖から、僕はいつしか「発言すること」そのものを避けるようになっていきました。黙っていれば、恥をかかずに済む。けれど、それは同時に、自分の価値を社会に問うことを放棄する、静かな敗北でもありました。
高学歴な友人たちが放つ「言葉の光」
社会人になって出会った友人たちの存在も、僕のコンプレックスを加速させました。 彼らの多くは、いわゆる高学歴で、言葉の引き出しが驚くほど豊かでした。
お酒を飲むだけの、なんてことのないシーン。 「最近どうよ」という問いに対して、彼らは自分の状況や感情を、まるで熟練の職人が織物を織るように、スラスラと、かつ的確に表現してみせるのです。
ウィットに富んだ比喩、構造化された論理、相手を飽きさせない語彙の選択。 隣でビールを飲みながら、僕はただただ圧倒されていました。 「どうして、そんなに上手に話せるんだろう」と。
彼らにとっては呼吸をするように自然な振る舞いが、僕にとってはエベレスト登頂よりも困難なことに思える。 「自分は彼らとは違う人種なんだ」 そう決めつけることで、僕は自分の無能さから目を背けようとしていたのかもしれません。
憧れの人を「徹底的に真似る」という独学
けれど、ある時、僕の中の「ロマン」が反旗を翻しました。 「話せる人=かっこいい、憧れ」 僕の中にあるこのシンプルなフィルターが、現状維持を許さなかったのです。
「才能じゃない。これは、トレーニングで手に入る『スキル』のはずだ」
そう自分に言い聞かせ、僕は泥臭い独学を始めました。 まず取り組んだのは、圧倒的な「語彙のインプット」です。 読書を再開しました。それも、単に目で追うだけではありません。音声読み上げアプリなども活用し、移動中も、家事の間も、常に「プロの言葉」を耳に流し込み続けました。 「この感情は、こういう言葉で表現できるのか」 「この状況は、この四文字熟語がぴったりだ」 そんな「言葉のストック」を、脳内の倉庫に一つずつ積み上げていきました。
次に、その言葉たちをどう「構成」するかを学びました。 お手本にしたのは、ビジネス系の対談動画やインタビュー動画です。 論理的に、かつ情熱的に語る人たちが、どのような順番で話を組み立てているのか。 どのような接続詞を使い、どこで間を置き、どこで結論を叩きつけるのか。
彼らの話し方を、文字通り「コピー」しました。 一人でいる時に、動画を止めて、今の発言を自分ならどう言うか試してみる。あるいは、彼らの言い回しをそのまま呟いてみる。 それは、武道の「型」を覚えるような、地味で孤独な作業でした。
「誰も手を挙げない場面」こそが、最高のジム
知識を仕入れ、型を学んだ。でも、それだけでは「現場」で言葉は出てきません。 最後に必要だったのは、圧倒的な「場数」と、それを支えるメンタルでした。
僕は自分に、ある厳しいルールを課しました。 「会議や集まりで、誰も手を挙げない不穏な沈黙が流れたとき、必ず自分が最初に手を挙げる」
これは、今思い出しても心臓がバクバクするような、恐ろしいトレーニングでした。 まだ自分の中で考えがまとまっていないかもしれない。的外れなことを言って、冷ややかな視線を浴びるかもしれない。 でも、その「恐怖」こそが、思考の回転数を強制的に上げるブースターになることを、僕は知ったのです。
「はい、発言してもよろしいでしょうか」
そう言って立ち上がった瞬間、逃げ場はなくなります。 必死で、脳内の倉庫から言葉を引っ張り出し、練習した「型」に流し込んでいく。 最初は支離滅裂だったかもしれません。でも、何度も何度も、その「修羅場」を自ら作り出すうちに、不思議なことが起き始めました。
「あれ、なんか普通に話せてるぞ」
焦りで白くなっていた視界が、クリアになる。 相手の反応を見ながら、言葉を微調整する余裕が生まれる。 コンプレックスの塊だったはずの自分が、気づけば「説明が得意な人」として周囲に認識され始めていたのです。
言葉は、世界を広げるための「ギア」
今、僕は「言語化」という言葉にうんざりしながらも、その能力が自分に与えてくれた自由の大きさを噛み締めています。
自分の想いを言葉にできるということは、自分の世界に「取っ手」をつけるようなものです。 掴みどころのなかった不安や、名前のなかった感動に、言葉という取っ手をつけることで、それを自在に操り、誰かに手渡すことができるようになる。
人前で話すこと。 複雑な事象を噛み砕いて説明すること。 それらは、今や僕にとって「得意なこと」のひとつになりました。 かつての、喉に言葉が詰まって窒息しそうになっていた自分に、「大丈夫だ、その苦しさはトレーニングの筋肉痛みたいなものだ」と伝えてあげたい。
言葉を鍛えることは、自分自身を鍛えることと直結しています。 読書で語彙を増やし、名手に触れて型を学び、そして誰よりも早く手を挙げて、恥をかく勇気を持つ。
不格好でもいい。 最初は言葉に詰まってもいい。 自分の内側にある「ロマン」を、一滴残らず言葉に変えて外に解き放つ。 そのために、僕はこれからも、流行の「言語化」という安易な看板に頼ることなく、自分自身の言葉を磨き続けていこうと思います。
「思考の余韻」を、消えない「言葉」にするために。


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