自分にストイックになる、ということは決して悪いことではない。 少なくとも、半年ほど前の僕はそう信じて疑わなかったし、その信念のもとで、がむしゃらに自分を追い込んできました。
タバコを捨て、酒を断ち(正確には、ストイックな日々の中で自動的に欲さなくなっただけですが)、鏡に映る自分の体が、ガリガリだった昨日までを脱ぎ捨てて、少しずつ男らしく厚みを増していく。その変化は、僕にとって何よりの報酬でした。 「自分を変えられる」という実感。それは、長らく失っていた自己肯定感を取り戻すための、僕なりの儀式だったのかもしれません。
けれど、先日の「膝故障事件」をきっかけに、僕は自分の歩き方を根本から見直さなければならないと痛感しました。 これから綴ることは、あまりにも当たり前のことです。 でも、その「当たり前」が、熱狂の渦中にいた僕の目には、完全に見えなくなっていたのです。

努力という名の、盲目な疾走
僕がこのトレーニングを始めたのは、単に「バキバキの筋肉が欲しいから」という浅い理由だけではありません。 挑戦のひとつひとつが自分を高めてくれる。その「自分磨き」のプロセスこそが、将来の自分にとっても、そして僕の大切な家族にとっても、きっと有益な財産になると信じていたからです。
強くて健康な父親。 ストイックに目標を追いかける夫。 そんな自分になろうと、僕は毎日、限界の少し先を走り続けてきました。
しかし、その情熱はいつしか、僕を盲目にしていました。 膝を痛めた後、僕は「これくらいならまだいける」と、痛みを無視してさらに走り続けました。その無理がたたり、実は膝だけではなく、内臓まで壊して数日間寝込むという、最悪の結果を招いてしまったのです。
それが、今回初めてお伝えする「初出し」のしくじりです。
妻からの叱責と、奪われた平穏
僕が寝込んでいる間、家の中はどうなっていたか。 我が家は、まだ小さな子供を育てる共働きの家庭です。ただでさえ、一分一秒を争うような慌ただしい日々を過ごしています。
僕が「自分磨き」の果てに倒れたことで、そのしわ寄せはすべて妻に、そして子供にいきました。 僕の看病、育児の全負担、そして家事のすべて。 妻からは「ほどほどにしなさい」というニュアンスの、厳しくも当然のお叱りを受けました。
その時、僕は自分自身の「ダサさ」を、嫌というほど突きつけられたのです。 家族のため、将来のために始めたはずの努力が、結果として家族の平穏を奪い、迷惑をかけている。 これでは本末転倒どころの話ではありません。
自分の限界を知らず、周りを見ずに突っ走る。それは「ストイック」でも「挑戦」でもなく、ただの「甘え」であり、独りよがりなエゴだったのだと気づきました。
目的の再定義。誰のための「浪漫」か
何が言いたいかというと、僕たちは「目的」を絶対に見失ってはいけないということです。 現在、僕の日々のトレーニングには、二つの大きな柱があります。
一つは、定量的なゴールとしての「フルマラソンの完走」。 もう一つは、定性的なゴールとしての「自己肯定感の向上と自己成長」。
これらは僕にとって、人生を彩る大切な「浪漫」です。 けれど、この二つを達成するための大前提として、新たに、そして最も重い「制約」を課すことに決めました。
それは、「誰にも、特に家族に迷惑をかけることなく、健康を維持したまま達成すること」です。
これは、ただがむしゃらに走るよりも、ずっとハードルの高いミッションかもしれません。 自分の体の声を精密に聞き取り、無理をする自分を制し、コンディションを管理する。 怪我で倒れて家族の手を借りるのではなく、健康な体で家族を笑顔にし、その上で「お父さん、すごいね」と褒めてもらえるような、そんなかっこいい自分を目指さなければならない。
僕が自分で自分に課したミッションの本質は、ここにあるのだと、ようやく理解できました。
勉強は、デスクの上だけではない
膝の痛みも、内臓の不調も、すべては僕にとっての「勉強」でした。 「わかっているつもり」になっていた自分を捨て、現実から突きつけられた教訓を真摯に受け止める。
自分一人が幸せになるための努力は、どこかで限界が来ます。 けれど、周りを幸せにするためのトレーニングであれば、それは一生続けていく価値がある。
そんな想いを胸に、僕は今日もトレーニングをしてきました。 もちろん、以前のような盲目な疾走ではありません。午前中の光を浴びながら、自分の体と対話し、家族との時間を守れる範囲で。
落ち込んでいる暇はありません。 失敗したなら、その「軌跡」を糧に、また新しい歩き方で一歩を踏み出すだけです。 周りの人を幸せにするつもりで、今日という一日を、そしてこの体を、大事に使っていきたい。
不格好で、矛盾だらけ。 それでも、僕はまた、新しい僕へとアップデートしていくつもりです。


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