この「LIFE | 日々の断片」というカテゴリーを設けたのは、僕という一人の人間が、日常という荒波の中でいかにして「ロマン」と「現実」の折り合いをつけているか、その不器用なプロセスをありのままに綴るためです。
前回、僕は「自分にストイックになるのは良いが、そのせいで他人に迷惑をかけるのは、もはや強さではない」という、至極真っ当で、けれど僕にとっては重い教訓を綴ったばかりでした。
それなのに、僕はまた、やってしまったのです。 「学習能力」という言葉が、今の僕の耳にはひどく虚しく響きます。
このブログを執筆している現在、僕は絶賛、風邪をひいています。 それも、一度治りかけたものを、自らの手で「ぶり返させた」という、救いようのない状況です。

家族内パンデミックと、ワンオペの孤独な戦い
始まりは、1歳の娘が保育園からもらってきた、何の変哲もない風邪でした。 保育園という場所は、子供にとっては社会性の入り口ですが、親にとってはウイルスの展示場のようなものです。娘が鼻を垂らし、熱を出せば、それはすぐさま家族全員への宣戦布告を意味します。
最初に倒れたのは、妻でした。 副鼻腔炎も併発し、彼女は完全に戦線を離脱。そこから数日間、僕の「ワンオペ」生活が始まりました。 仕事、炊事、洗濯、そして熱を出して不機嫌な1歳児の相手。 前回の教訓があったからこそ、僕はここで「ストイックな自分」を家族のために最大限に発揮しました。自分のトレーニングは完全に封印し、家族を守る盾になろうと必死でした。
しかし、ウイルスは僕のそんな「正義感」を嘲笑うかのように、僕の体内に侵入していました。 数日後、妻の体調がようやく回復の兆しを見せ始めた頃、交代するように僕が発症。 「なんとか、妻が動けるようになるまで持ち堪えたぞ」 その時は、自分の体力の限界点を見極めたような、妙な達成感さえありました。
しかし、事件はその後に起きたのです。
「治った」という過信、そして30分のランニング
数日間の寝込みを経て、熱が下がりました。 体が軽くなったように感じた瞬間、僕の中にいた「止まれない男」が目を覚ましました。
「数日もトレーニングを休んでしまった」 「筋肉が落ちているのではないか」 「このままでは、フルマラソンの目標が遠ざかる」
そんな焦燥感が、僕を突き動かしました。 熱が下がった翌日、僕はジムに向かいました。もちろん、病み上がりです。自分でも「無理は禁物だ」と言い聞かせ、負荷は通常の半分程度、軽く体を動かすだけのつもりでした。
その日は、何の問題もありませんでした。 「よし、よし、治ったぞ。僕の体質なら、もう大丈夫だ」 この過信こそが、最大の罠でした。
翌日、僕はさらにアクセルを踏みました。 外はゴールデンウィークの柔らかな光が溢れていました。 「軽く30分だけ、ランニングしよう」 走り出すと、風が心地よく、汗をかくことが快感でした。数日間、病室のような寝室に閉じ込められていた僕にとって、その30分は「自分を取り戻す儀式」のように感じられました。
しかし、神様は僕のそんな「自己満足」を許してはくれませんでした。
二度目の発熱、そして「無念」という名の重圧
ランニングを終え、シャワーを浴びて数時間後。 ゾクゾクとするような、あの嫌な予感が背筋を走りました。 計測した体温計が示した数字は、一度目の発熱よりも高い、明らかな「再発」のサイン。
そこからの数日間は、一度目よりも悲惨でした。 ぶり返した熱は執拗に僕の体力を削り、僕は再び、ゴールデンウィークの貴重な時間をベッドの上で過ごすことになったのです。
何より辛かったのは、体調そのものではありません。 「また、家族に迷惑をかけてしまった」という、圧倒的な無念さです。
妻はせっかく治ったばかりなのに、また病人の僕の世話をすることになり、1歳の娘と遊ぶはずだった休日は、夫が寝込んでいる不自由な時間に変わってしまいました。
「よく言えばストイック、悪く言えばアホ」 妻の視線がそう語っているように感じ、僕はただただ、掛け布団を深く被るしかありませんでした。
なぜ僕は、あと1日、いや、あと数日を「ゆっくり過ごす」ことができないのか。 なぜ「何もしない」ということに、これほどの恐怖を感じてしまうのか。
「何もしない」という、究極のトレーニング
病床で天井を見上げながら、僕は深く反省しました。 ストイックであることは、目標を達成するためには不可欠な要素です。 けれど、そのストイックさが「状況判断」を曇らせるなら、それはもはや武器ではなく、自分を、そして周りを傷つける刃でしかありません。
今の僕に必要なのは、重いダンベルを持ち上げることでも、30分走ることでもありませんでした。 「勇気を持って、安静にする」こと。 それこそが、今の僕に課せられた、最も難易度の高いトレーニングだったのです。
僕たちは、何かを「積み上げること」に価値を置きがちです。 けれど、長い人生という名のフルマラソンにおいては、時には立ち止まり、エネルギーを蓄え、風が止むのを待つことも、同じくらい重要な「進歩」なのです。
「止まることは、退化ではない」 文字にすれば簡単ですが、それを骨の髄まで理解するのに、僕は家族に二度も迷惑をかけ、ゴールデンウィークを病床で棒に振るという高い代償を支払わなければなりませんでした。
二度と同じミスはしない、という誓い
これを書いている今、僕の体調は完治には至っていません。 鼻声ですし、体力も万全ではありません。
けれど、今回の僕は違います。 「よし、治った」と思った瞬間から、さらに3日間の「完全静養」を自分に課すことにしました。 ジムの会員証も、ランニングシューズも、今はクローゼットの奥に押し込んでいます。 体が「動かしたい」と叫んでも、それをあえて無視する。その「無視する力」こそが、次に僕が手に入れるべき「浪漫」なのだと自分に言い聞かせています。
段階的に、慎重に、家族に褒めてもらえるような、健康な自分をまず取り戻す。 トレーニングへの復帰は、その後の話です。
このゴールデンウィーク、僕は結局、一歩も遠出をすることはありませんでした。 けれど、ベッドの中で「自分の弱さ」と向き合ったこの時間は、ある意味でどんな旅行よりも、僕のキャリアや人生にとって深い学びを与えてくれたのかもしれません。
二度と同じミスはしない。 そう自分に誓い、僕はまた一服の白湯を飲み干します。
不器用で、欲張りで、それでも自分をアップデートしたいと願う全ての「同志」たちへ。 休むこともまた、一つの挑戦です。 共に、賢く、強く、歩んでいきましょう。


コメント